2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

ショパンと私



大阪 ショパン協会総会 講演 1998年5月



ピアニストでショパンが嫌いだったり、

ショパンを弾かない人はいない。しかし、ピアニスト達のショパンとの出会いはそれぞれに異なっていると思う。

 私も思い出話をする年になったので記憶をたどってみると、最初にショパンを耳にしたのは、ピアノを初めて間もない5、 6才の頃であった。

 ピアニストであった父がフランス留学から帰って間もない頃、早朝に父がショパンの黒鍵のエチュードを練習しているのを聴いて、眼を覚ましたのを記憶しているので、その頃の父は朝は必ず指慣らしをしていたのだろうと思う。


父は九州の大分県大分市の出身、

稲田屋という旅館の長男で旅館の跡取り息子であった。明治35年5 月5 日生まれで気性は激しく、端午の節句に相応しくあたかも鍾馗様の生まれ変わりのようだったらしい。明治の文明開化の風潮を引き継いでいたのか、大正時代の西洋文化に憧れる世間の流れであったのか、家庭はカトリックでもなかったのに教会に出入りし、オルガンの響きと賛美歌に魅せられて、教会で時々オルガンを弾かせてもらっていたらしい。それでオルガン弾きになりたいと云いだした。

 当然、一家親族の猛反対があったのだが、「爺様、とにかく一度だけ、東京の音楽学校を受験させてくれ、それが駄目であったら、音楽はキッパリ諦めるから」と言いくるめて、東京上野の音楽学校を受験した。

 当時、上野の音楽学校にはオルガン科などなくて、それでしかたなくピアノ科の試験を受けたという、今考えれば無茶苦茶な話しである。

 それでも合格して、とにかく入学することができたのである。


父はバンカラで下駄をつっかけ、

袴をはいて、腰に大きな目覚まし時計をぶらさげたような恰好のスタイルだったと、後で知人からよく聴かされたが、それでも非常な猛勉強で努力家であったのか、卒業の頃は随分と弾けるようにはなっていたらしい。

 それで学校を卒業したら本当は郷里に帰る約束だったのが、「折角卒業したのだから、今度は是非音楽の本場のヨーロッパへ留学させてくれ」とねばって、それから二年という約束でフランスに留学した。どういう紹介の経路をたどったのか、当時フランスの新進のピアニスト、ロベール・カサドジュに師事したのである。


その父がヨーロッパへ行ってみたら、

自分たちがあれほど苦労し苦心して勉強している曲を、子供達は何の苦もなくすらすらと弾いている。しかもはるかに上手である。それに、どうも音楽に対して音感も持っているらしい。

 これではとても駄目だというので、音楽の『早期教育』『絶対音感教育』ということを考えついた。当時日本で5歳くらいだった私は、父からの手紙によって、母や知人の手ほどきでその実験第一号となったわけである。

 その『早期教育』『絶対音感教育』は今日の音楽教育の基本になっていて、当たり前のこととなったのである。

 父は間もなく帰国し、わたしは父からピアノの基礎的教育を受けることとなったが、間もなく父は病に冒され、昭和10年12月、私が数え年 8才の時に胃ガンで亡くなった。


さて、私のショパンに対する思いも、

その時代時代によって目まぐるしく変化した体験を持っている。

 最初は先に述べたように父の練習するピアノの曲からの華麗な印象であったが、次には私が小学校に入学した頃から師事したレオ・シロタ先生であった。

 父はそのころ多分自分の死期を予想していたし、音楽を始めるならば本場の伝統ある雰囲気を学ばせることが大切だと思って、新進ピアニストとして来日したばかりのシロタに師事させたのであろう。


レオ・シロタ先生は

ロシアのオデッサの生まれで白系ロシア・ユダヤ人。ヴィーンに出て認められ、たまたま当時の高名なピアニストであったフェルッチォ・ブゾーニーに師事し、ブゾーニーの弟子の中でも指折りの 5人の高弟と云われた名ピアニストで、そのテクニックは抜群であった。

 私も先生の演奏は一回だけそのリサイタルをきいていて、子供心にも鮮明な印象と雰囲気は凄いものであったと記憶している。

 たしかプログラムには、チャイコフスキーのソナタ、ストラビンスキーのペトルシュカを含んでいて、いつも最後は十八番のリストのハンガリアン狂詩曲6番といった重厚なものであった。


そのシロタ先生のレッスンだが、

子供の僕のレッスンの時には必ずその勉強している曲を弾いてくれた。そして先生の演奏する変イ長調のワルツ、変ト長調のワルツなど絶品であった。これが私の次のショパンとの出会いであった。


 そのシロタ先生のところで、少年のある頃にショパンの24のプレリュードをもらって、演奏したことがある。そしたら「何という早熟な才能だろう」と頭を撫ぜてくれて褒められた。実は種明かしをすると、その頃はアルフレッド・コルトーの演奏するヴィクターの赤盤のレコードが出回っていて、それを聴いてショパンとはこういう風に弾くものかと思い込んで、コルトーのルバートをうまく真似して弾いたのである。ショパンのプレリュードがどんな曲なのか、ショパンの作品のなかでどんな位置にあるものかなど全く理解していなかった。勿論子供だったから、恐らく野村光一さんの解説文なんかもちんぷんかんぷん、猫に小判であったのであろう。

 ショパンのバラードもレッスンで弾いたが、当然のことスタイルは先生の影響でショパンの音楽の内容の表出に努力するよりも、ピアノの演奏というヴィルチュオーゾ一点張りのスタイルであった。


中学校に入ってその頃、

戦争は一段と激しさをましてきた。

 実は、私は小学校 5年から飛び級して中学に入学したのである。これはなにも私の成績が優秀だからというのではなくて、なるたけ早く上野の音楽学校に入学するためで、中学校も三年から音楽学校を受験したので、音楽学校では同クラスでは二才若かった。

 その頃中学校では普通軍事教練というのが必修で行われていて、それでは指に悪いし怪我でもしたら困るので、出来るだけ軍事教練がルーズな中学校を探そうということで、ツテがあって護国寺の付属の豊山中学校に入学した。

 入学してみるとこの学校は坊さんの子弟が多く、自習の時間になると皆お経をとりだしてぶつぶつ練習している始末。お盆やお彼岸にはクラスの半数は坊さんに連れられて仕事に出掛けるので欠席するのである。だから国語や漢文などの時間は皆出来るのである。

 私は飛び級で小学校 6年をしていないので、その年度の漢字の学習が欠落していて最初国語と漢文は大の苦手であった。なにしろ知らない文字ばかりであった。


その国語と書道の担任の先生に、

江川先生という人がいた。この人は国文学に大変造詣が深い、今にして思えば私の人間形成に多大の影響を与えてくれた先生であった。というのも国語の時間には、広辞苑、漢和大辞典を全員買わされて、それによって辞書を引く習慣を覚えたりもし、熟語の使い方も、もともと仏教の子弟の多い学校であったので、一々彼等から教わったのである。

 その頃、私はピアノを弾くということで、中学生としてはかなり特殊な異邦人と見られていたけれど、ある日、この江川先生から、家に遊びにこいと云われて出掛けていったことがあった。先生の家は隅田川のほとりにあって、割烹旅館と料亭ということをその時に初めて知った。しかしそんなことにはまるっきり関心の薄い私が、先ずびっくりしたのは先生がすごいレコードの蒐集家であったことである。

 そこで初めて、ショパンの幻想即興曲が何と外国人の演奏家で15,6 種類もあることや、その演奏が実にさまざまであることに仰天したのである。


 その時に初めてピアノの音楽とは同じ曲でも実に色々な演奏解釈があるものである、ということを初めて自覚した。そして、パッハマンとか、パデレフスキーとか、ブライロフスキーなどというピアニストの名前を知ったのである。


そうこうしているうちに

上野の音楽学校に入学することとなった。

 その入学の前後の頃は戦争もますます激しくなってきて、外国人教師排斥でレオ・シロタ、レオニード・クロイッツァー、アレキサンダー・モギレフスキー等みな音楽学校から追放されて、軽井沢に閉じ込められてしまった。

 それで音楽学校受験の一年くらい前から、同じレオ・シロタ門下ということで豊増昇先生に師事することになったのである。

 当時、音楽学校には井口基成、豊増昇、永井進の三羽烏と云われた先生達がいて、そのレッスン室は同じ棟の隣合わせか一つ置きであったと記憶している。それで時折り井口先生のどなり声が聞こえてくることがよくあったように思う。

 私の豊増先生の教室のとなりに野辺地瓜丸(後に野辺地勝久)先生の部屋があった。


当時の私は

シロタ先生を見よう見まねで、テクニックも横に流れるような演奏をまねていて、ピアノを弾けることにもっぱら興味があった。

 野辺地先生は私のレッスンの時にしばしばドアごしに覗かれて、そんなある日のこと「一寸部屋にいらっしゃい」と呼ばれて弾かされたことがあった。そして曰く「まあよくお弾けになりますね。だけどそんな下駄で鍵盤をふん付けるような恰好の手つきで」と一々酷評される。

 そしてフレーズ、和音和音を個々の音楽について、実に適切な辛辣かつ瀟洒なえも言われぬ形容詞で批評するのである。

 そして「一寸お退きなさって」と自らピアノ弾いて下さる。

 その先生の演奏は、指が鍵盤を舐めて這うような何ともまるで違ったタッチで演奏され、したがって全く違った響きとなってピアノの音が出てくるのである。それには驚いた。しかし野辺地先生はそうして模範を示されているつもりなのが、中々旨くいかなくて、そのうちにご自分の演奏に酷い呪いの言葉を浴びせたりして絶望し、演奏は目茶滅茶になり悪戦苦闘し、のたうち回るのである。私にはそれが実に面白い見物で、好奇心もあって実によく先生のお部屋にお邪魔した。


 その野辺地さんから、ピアノのタッチの問題を「アルフレッド・コルトーはこうして打鍵をしなさいと言った」といって、手さばき、指さばき、腕さばきを、誇大な実演をこめて披露され指導を受けた。

 勿論それはあまりにもレオ・シロタ先生から習った私の流儀と違うので、半信半疑であったが、アルフレッド・コルトーがそう云ったということと、コルトー版のショパンの楽譜のフランス語を野辺地先生が「まあこんな素晴らしい形容がお読めなにならなくて何とまあ残念なことで」といって説明されるのが、すばらしい魅力であった。

 つまりその頃ショパンの演奏といえば、コルトーのレコード一点張りで、評論家の野村光一さんなどは、コルトーをまるで神様のように奉っていて、野辺地先生はそのコルトーの薫陶を受けたということで、私には何か奏法の秘密を窺い知ることができるような気がしていたのである。そんなわけで、野辺地先生の演奏会を付け回して、その奏法の極意を盗もうと目を凝らした時期もあった。

 その奏法の特徴は、まず腕、手、指をピアノに対して自然に置いて、特に打鍵の瞬間は指の腹でピアノの鍵盤の方向と平行になるように打つことであった。


 野辺地さんの話には興味があった。そして曲を悪戦苦闘して懸命に弾かれるその演奏態度はもっと魅力的であった。それやこれやで、ショパンのエチュードも殆ど野辺地さんの教室で演奏したことがある。

 そして、卒業はリストのドン・ジュァン幻想曲。卒業してデビューは日本交響楽団定期でショパンのピアノ協奏曲第1番。その後デビュー・リサイタルをして間もなく、三回にわたつて日比谷公会堂でショパン連続演奏会をした。もちろんガラガラで毎回百人も入っていたかと思うくらいで、野球の空の球場のようであった。


その頃、日本で

ショパンの演奏で美しいと思ったのは、原智恵子さんであった。この方の演奏の表現はきつく、しかし美しく濃密な情緒があったと記憶している。他の女流ピアニストの演奏はさっぱり信用出来ないような気分がして、それやこれやでそれ以来、私はショパンをしばらく演奏しなくなってしまった。


1951年、初めて外国に出て

スイスに行き、その直前に死んだディヌー・リパッティーの話を聴かされ、早速ショパンの作品58のソナタのレコードを聞いた時非常なショックを覚えた。リパッティーはコルトーの弟子であるのに、凡そ師の演奏とは似ていないどころか、これぞ現代のショパンの演奏と思えるような斬新な近代的なスタイルであった。そのピアニズムの美しさは特筆すべきでもので、そのショパンのバルカロールやピアノ協奏曲の見事さも絶品である。今でこそなんでもCDで手に入るが、その頃はSPの一枚一枚が驚きで、熱心にレコードを買い漁って彼の演奏の業績を辿って聞いた。

 それからまもなくパリに出てマルグリット・ロン女史のコースで演奏することとなった。その頃、ロン夫人は17区のブーローニュの近くで、毎週レッスンを兼ねた公開講座をしていて、その席にはチッコリーニ、アントルモン、ワイエンベルク、グルダなどが常にはべっていて、時々髪の真っ赤なタリアフェロ、奇人のフランソワなど現れたのである。

 そこでは入れかわり立ちかわりショパンのあらゆる曲が演奏され、新入者の演奏がつまらないと、ロン夫人の指示によって飛び入りで代奏したりすることもあった。

 フランスの作曲家達のドビッシーやラベル、フランクは当然の演奏曲目であったが、その他にショパンのスケルツォ、バラード、ノクターン、マズルカ、プレリュード、ソナタ、協奏曲などが、実に様々なスタイルで演奏され、しかも同じ世代のピアニストたちへのロン夫人からの直接のコメントを聴きながら勉強するということは非常な刺激であった。

 そんな中で私もショパンの作品35の58ソナタや、バラード、スケルツォなどを弾き、ロン夫人のコメントを受けたことは、なによりも生きた勉強で幸せであった。


また当時のパリには

ポーランドからの亡命者が沢山住んでいて、ポーランドの演奏家によるリサイタルともなるとそうした人々が参集して、演奏会場は一種独特な雰囲気につつまれ、ポーランド演奏家達の醸し出すショパンの音楽の香り、民族の体臭とでもいう陰鬱な哀調は特別なものであった。こうしてマルクジンスキー、ウニンスキー、ブライロフスキーなどの演奏を聴いたことは、それまで私の耳にしたことのない特別な音楽であった。こうして私も、ショパンの演奏を考えるようになったのである。そして、それまで知っていた日本で通用していたショパンのイメージとの隔絶を、身に沁みて感じた。

 ロン夫人のプライベートなレッスンを通じて教わったことは、かって野辺地先生がやっていたような、指の腹で撫ぜるような柔らかい打鍵は何も特別に独特の奏法ではなくて、フランス人は皆それによって音色の変化を付け、ニュアンスを変えるために行っているテクニックであることへの確信であった。

 そしてその後一度帰国してから、日本でのカラヤンとの共演を機会に彼の推薦状をもらってドイツへ行き、私の音楽のドイツ化が始まったのである。


最初、ドイツでは

ショパンやラベルを良く演奏した。ベルリンのデビューの後、リサイタルでショパン・プログラムで演奏会をしたこともあるし、新しいベルリン・フィルハーモニーのホールが完成してから、そこでオール・ラベルのプログラムで演奏会したこともある。

 そんなわけで私のドイツでの最初の評価は、日本のギーセキングということで、ピアノのタッチとペダルの変化との組み合わせ(ミッシング)に注目してくれて、ドビッシーやラベルの演奏ではベルリンの批評家のシュトッケンシュミットの絶賛を得たこともある。その頃はフランス音楽のプログラムなどもよく演奏した。


しかし、私のショパンの演奏家としての活躍は、

怖い女性が跋扈している日本では全くお呼びがないので、日本でショパンを演奏することはなかった。それは本当で、たとえば毎シーズン、プログラムを音楽事務所に提出しても、ショパンの曲目の入っているプログラムや協奏曲は必ず削除される。それは日本ではある特定のピアニストの領域で不可侵領域なのである。

 まあそれはどうでもいいことだが、私が問題に思うのは、日本で演奏しているショパンの音楽の全体のスタイルはどうも変だと思う。

 今までにお話したように、子供の時にシロタ先生のところで耳にした演奏、独特の乗りのあるワルツとか、物憂い甘い感傷的なノクターンであるとか、哀調を帯びたマズルカなどはまったく違った雰囲気であった。

 初めて外国に出て、パリのロン夫人達が演奏していた感じ、あるいはその頃、同じ世代の人達が演奏していたショパンのスタイルも、私には新鮮で魅力的に思えた。

 一つのルバートや、旋律の崩しやニュアンスにしても、フランス的と云ってしまえばそうだが、それは日本で耳にすることは全く無いものである。

 また先にお話した、亡命ポーランド人の演奏するショパンの雰囲気は、さらに違うものであった。


先年85年に参加したショパン・コンクールで感じたのだが、

大多数の外国人の演奏するショパンと、日本人のそれとは全く違っていた。日本人のショパンの演奏は無機的で、音楽は何も表現していないように思った。

 これはロシヤ人の攻撃的圧倒的な強さとも、アメリカ人のテクニック至上主義の、それでいて何かおおらかなひたむきさ、ある種の幼稚さとも違う。

 要するに、聴いていて音の数量から何の手掛かりも情感も得られないショパンの音楽は、音楽の再現とは云えないものだと思うのである。

 そこには我々日本人がもっと真剣に皆で研究開拓してゆかなければならない、表現芸術の世界、ショパンの音楽をどのように表現するかという命題があると思うのである。

園田高弘