2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア



アルノンクール著 「古楽について」



 最近つくづくと考えることだが、こんなに日本の音楽家達の一般的な演奏能力が向上したことは、本当に凄いことだと思う反面、それが音楽を演奏する上での基本的条件ではあっても、何とも音楽の表現なり理解力には直接結びつかず、音楽家個人々々の成長に役立っていないような現状を、見たり聞いたりすることが多々あるので苦しく思うのである。そんな私は最近、有名な指揮者であるアルノンクール著の〔古楽について〕という本を偶然手にして、非常なショックを受けたのである。それは日本の音楽界の現状に対しての強い示唆と警鐘をそこに発見したように思うからである。

 最初、その本を拾い読みしていた時に、ブラームスが言った言葉が引用してあって、『良い音楽家となるためにはピアノを練習するのと同じくらいの時間を読書に費やさねばならない』とあり、音楽家の不勉強を指摘されたようでさもありなんと苦笑を禁じえなかった。しかし、アルノンクールは更に続けて「今日的にもこの言葉はすべてを語っている。われわれは今やほぼ四世紀にも及ぶ時代の音楽を演奏しなければならないので、過去の音楽家とは異なり、あらゆる種類の音楽のことを学ばなければならない。
 パガニーニやクロイッツェルの演奏テクニックを完全に身につけただけでは、バッハやモーツアルトを演奏することの武器を得たなどとは思ってはいけない。そのためには語りかける音楽の技術的前提や意味を、再び理解するように努力しなければならない」と強調しているのである。

 次にバロックの音楽については「それはひとつの外国語であるのだ。なぜかなればわれわれはバロック時代の人間ではないからだ。われわれは外国語をどう学ぶべきかを知っている。つまり語彙や文法、発音などを学ばなければならないのと同様に、音楽のアーティキュレーションや和声法、区切りや強調の理論を学ぶ必要がある」と力説しているのである。これには衝撃を受けた。

 西洋人であるアルノンクールのような学者であり演奏家である音楽家自身が、自分たちの伝統的音楽について、これほど確信をもって警鐘を鳴らしているとしたら、われわれ東洋の日本人音楽家にとっては、それはどういうことなのか。
 バロックだけではなく、ウィーン古典派の音楽であるハイドン、モーツアルトやベートーヴェンも、ましてやドイツ浪漫派のシューマンの音楽、フランスの印象派のドビッシーやラベルの音楽なども、我々にとってはすべて外国語ではないのか。

 語学の勉強には文法も発音もイントネーションも大切なように、音楽でいうならば、単なる強弱法もアーディキュレーションを吟味することは勿論大切であり、加えてその楽節センテンスの意味も、それが何を語るものなのか、音楽の思考性は何であるのか、またそれはどこへ向かって発展してゆくのか、その音楽の現象的変化についての綿密な具体的把握が必要である筈である。
 そうしたことの重要性が把握されないまま、それで演奏がいかに技術的に正確でも、それだけでは音の高低の羅列であって、それによって音楽という芸術が再現される筈がない。それは所詮書かれた音価の無機的展示でしかなく、音楽は音響の画一的強弱の時間的経過となって芸術は語りかけてはこない。

 演奏家には常に完全ということはありえないので、音楽に対する思考が定まっていないと、目的は限りなくすり変わってしまって、演奏に対する努力は途方もない迷路に陥ってしまうことになるのではなかろうか。
 アルノンクールの本は音楽家に大いなる反省を促すものである。